待井昇君の思い出
おはようございます。ヤクルトけんちゃんです。
本日は待井君の思い出という私個人の思い出です。
ヤクルトは出てきません。
待井君は私の小学生時代のクラスメートでした。
私も身長は高い方でしたが、彼は更に高く体格もよく、
体力的には学年では図抜けていました。
喧嘩では並ぶものなく、番長の異名も取っておりました。
スポーツではあらゆる種目で優れた能力を発揮し、
私なぞ柔道で奇襲攻撃をかけやっとぐらつかせる程度で
そのあとは見事に投げられました。
同じ中学に進み、彼は野球部を選びました。
野球部時代の詳細は知りませんが、その活躍ぶりが鳴り響いたのでしょう、
日大三高に特待生で進学し、三高野球部では3番センター兼2番手投手で甲子園にも出場しました。
そのチームメートで4番の吉澤俊幸は三高から早稲田、阪急に進み、そこそこの活躍をしました。
待井君は高校から1972年に太平洋クラブライオンズ(今の西武)にドラフト9位で指名され、プロ入りしましたが、一軍出場は74年の26試合のみで、守備固め・代走がほとんどでした。
後に思いましたが、小学校・中学であれほどのスポーツ万能で高校野球でも活躍した彼でさえ、
簡単には通用しない狭き門なのだと。
当時はスポーツでプロというと野球か相撲くらいしかなく(ゴルフはまだまだ誰でもやるということはなく)、日本中のスポーツ万能の中学生は体が大きければ相撲に、運動神経がよければ
プロ野球を目指したので、いまよりもっとプロ球界で生き抜くのは厳しかったのではと
思います。
時々、彼が何か他のスポーツを選んでおいれば花開くこともあったのではと考えることがあります。
カウントダウン: ヤクルト オープン戦スタートまで36日
上記数字は各選手個人のWikipedia 及びYahoo スポーツの昨年の球団別の選手成績を参考にさせていただいています。