ヤクルトの監督
おはようございます。ヤクルトけんちゃんです。
今年日本一になったヤクルトの監督は高津氏で、もちろんヤクルトのレジェンド守護神です。
その前のセリーグ優勝時2015年の監督は真中氏でこれも2007年に代打起用回数95回、代打安打数31で日本記録を持つ
ヤクルト生え抜き選手でした。
その前の優勝監督は2001年の若松氏でした。この方もヤクルトの伝説的安打製造機で歴代2位の通算打率記録を持ちます。
ということで、近年のヤクルトは2008年~10年の高田繁監督を除いては、1999年~05年が若松氏。
2006年~07年が古田氏。
2010年~14年、18年~19年が小川氏。
15年~17年が真中氏と所謂ヤクルト監督はスター路線となっています。
この中で小川氏だけが現役時代レギュラーではあったものの、スターとはちょっと違いました。
さて上記の若松監督の前がノムさん時代、更にその前の優勝は広岡監督の初優勝でした。
ということで広岡監督の前(そして広岡監督後も)ヤクルトはずっとセリーグのお荷物チームだったわけですが、
当時の国鉄からサンケイグループ、更にヤクルトと親会社が転々とする中、テコ入れとして広岡氏に
続くまで球界のスターを監督として外部から招聘しました。
1968年~70年 別所毅彦、
1971年~73年 三原修
1974年~76年 荒川博
別所氏は南海から巨人の元祖二刀流選手で、投手として310勝、打者として35本塁打、248打点、.254という
スーパー選手でしたが、監督としてはヤクルトで4位・5位・6位と結果は出せませんでした。
三原氏は選手としてはそれほどでもありませんが、1947年の巨人監督から73年のヤクルトまで巨人・西鉄・大洋・
近鉄・ヤクルトと監督を歴任し、三原マジックと言われる奇抜な作戦を繰り出し、巨人・西鉄・大洋で
優勝監督となりましたが、三原マジックもそこまで、近鉄・ヤクルトを優勝には導けませんでした。
その後の荒川氏は王貞治を「世界の王」に育てた名打撃コーチでしたが、監督としては難しかったようです。
その後を継いだ広岡氏が優勝したのも一時でそこからまたお荷物球団に後戻り、本当の強いヤクルトは
ノムさんの登場まで待たねばなりませんでした。
そこから若松・真中・高津とヤクルトスター選手による優勝監督と、ノムさんが基礎を作った強いヤクルトを
土台にヤクルトのスター選手が監督としても成功を収めるようになりました。
上記数字は各選手個人のWikipedia 及びYahoo スポーツの成績等を参考にさせていただいています