カムバック賞

おはようございます。ヤクルトけんちゃんです。

カムバック賞は怪我や病気、長期の不調などから復活した選手に授与されるが、セ・リーグとパ・リーグで授賞基準に大きな違いがあり、パ・リーグでは脳腫瘍から復活を遂げた盛田幸妃(大阪近鉄バファローズ)が2001年(平成13年)に授賞して以来、現れていない。

セ・リーグはパ・リーグほど厳しくはないものの、2005年(平成17年)以降は授賞者数を大きく減らしている
このカムバック賞ですが、最近はあまり聞かないような。

過去にはヤクルトの選手も結構受賞しているので、果たして長期の不調とはどれくらいなら長期とみなされるのか、今日は検証してみましょう。

ヤクルトの選手としては
74年の石岡康三 で6勝5敗8S2.06が第一号、
76年の船田和英 .302 2本塁打、23打点、 8盗塁でした。

87年 の杉浦亨 .304 24本塁打、73打点、3盗塁

92年 伊藤昭光、 7勝5敗、1S 2.77

93年 川崎憲次郎 10勝9敗、0s 3.48

97年 伊藤智仁 7勝2敗、19S 1.51

03年 鈴木健 .317、20本塁打、

2015年 館山昌平 6勝3敗、2.89
おやおやヤクルトの選手が多い感じです。上記ヤクルトの8選手以外にはセリーグでは23選手が表彰されているわけで、ヤクルトのカムバック率の高さが際立ちます。(これも伝統の再生工場のなせる業でしょうか)
石岡投手は1974年ドラフトが始まる前年に明治大学からヤクルト入り、68年・69年には二けた勝利を上げヤクルトが弱かった時代、金田正一が抜けた後のヤクルト投手陣を支えました。そこから少しづつ成績を下げて、72年からコーチ兼任となり、74年のカムバック賞です。この石岡投手は怪我や故障からはいあがってというケースケースではありません。
船田は内外野守れるユーティリティプレーヤーだったが、1962年に巨人に入団、70年に「黒い霧事件」(野球賭博八百長事件)に関わったとして、出場停止処分を受け、72年にヤクルトに金銭トレード。78年の広岡監督率いるヤクルトの初優勝時は伊勢孝雄と共に代打の切り札として活躍。船田のカムバック賞はこの出場停止明けからの78年の活躍が大きいのかと。
杉浦選手はヤクルトの大砲として活躍、広岡優勝時には3番若松・4番マニエル・5番杉浦の強力クリーンナップが多大な働きをしました。
この後87年は怪我で成績を落とし、88年に復活を遂げたわけです。
伊藤昭光は85年のドラ1で高校からヤクルトに入団、88年には18勝と最多勝投手になりましたが、90・91年には故障でほとんど活躍できず、92年にカムバックしました。

川崎投手は88年のドラ1で高校から入団、90・91年は二けた勝利、92年は故障で一軍登板なしで93年にカムバック賞です。

伊藤智仁は92年ドラ1で社会人からヤクルト入り。
高速スライダーで1年目から活躍しましたが、故障。それからは故障で苦しみながら97年にクローザーとして復活しました。
鈴木健は西武でパンチのある内野手として活躍しましたが、02年に戦力外になり、ヤクルトへ。野村再生工場で蘇りました。
館山は大卒ドラ3で02年にヤクルト入り。09年には16勝で最多勝を取りましたが、再々の故障で体中にメスを入れたということで有名です。

以上を見るとヤクルトもドラフトで取った投手が結構活躍していたことがわかります。
最近はドラフト戦略が拙いのか、育成下手なのか、ドラ1で取った優秀な?投手が育たないという現実があります。
昔のヤクルトも二けた勝利投手なんて当たり前のようにいたわけですが、このところ激減しています。
球団トップからこの現実を変える方策を建ててください。

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