球団名の変遷1 ライオンズ
おはようございます。ヤクルトけんちゃんです。
昨日の記事で待井選手のことを書きましたが、その彼の入団したチームが太平洋クラブライオンズと聞いて、えっ?と思われた方もいるのでは。
太平洋クラブライオンズは現在の西武ライオンズの前身です。
プロ球団としてのオリジナルは1949年に設立された西鉄クリッパーズです。親会社は西日本鉄道、博多の平和台球場を本拠地としていました。
51年に西鉄ライオンズに変わり、ライオンズの名は今に続きます。
同年、三原監督を巨人から迎え、稲尾・中西・豊田らを抱え第一期黄金時代が始まります。
54、56、57年にリーグ優勝、63年に中西監督でも優勝しています。
それから長く低迷が続き、72年にゴルフ場開発会社の太平洋クラブが西日本鉄道から球団を買収。
チーム名も太平洋クラブライオンズに変わりました。
それも続かず、77年にゴルフ場開発会社廣済堂(太平洋クラブとゴルフ場つながりでしょうか)の傘下であるクラウンガスライターにスポンサーが変わりクラウンライターライオンズに変わりました。
今の方には想像もつかないでしょうが、当時(約40年前)は喫煙率が高く、今のような100円ライターはなく、普通の人はマッチで煙草に火をつけ、流行りの若者はZippoのオイルライター、紳士はカルチェなどのガスライターで、飲み屋さんで格好つけて煙草に火をつけたもんです。
ということで、ガスライターの製造会社がプロ野球のスポンサーになるなんてことが可能だったわけです。
今だったら嫌煙運動家たちからライオンズ排斥運動が起きますな。
それもつかの間、チームは1年で西武鉄道に売却され、1978年から現在の西武ライオンズに変わり、本拠地も埼玉所沢に移りました。
もともとプロ野球球団は鉄道会社が所有することが多かったのは、一つには資金力ですが、鉄道会社はその鉄道沿線に膨大な土地を持ち、その土地を有効利用し(球場を作ったり)、野球を見に来る観客がその鉄道を利用するなど、一石二鳥ですな。
当時の西武鉄道(国土計画)はいけいけどんどんで、豊富な資金力と政治力で、オーナーの堤義明は巨人をしのぐ球界の盟主を目指しましたが、チームを託した根本監督の下で成績は低迷。82年にそれまで底辺をさまよっていたヤクルトを一躍リーグ優勝に導いた広岡達郎を監督に迎え入れるや、82、83年にリーグ優勝。86年からは森監督を迎え、その後に続く西武黄金時代が
築き上げられました。(そういえば三原も広岡も森も巨人のOBですな)
しかし西武ライオンズの実質的なオーナーである国土計画もバブルがはじけ、堤氏も逮捕されたりなどして、完全に西武球団に対する影響力はなくなりました。
堤氏も日本の大きな出る杭の一本でした。
カウントダウン: ヤクルト オープン戦スタートまで35日
上記数字は各選手個人のWikipedia 及びYahoo スポーツの昨年の球団別の選手成績を参考にさせていただいています。